10月を迎えました。複数の取材案件と事務局支援の仕事が並行して続いている近ごろです。
さて今回は、以前にnoteに書いた記事を加筆・修正し、掲載します。
テーマは「語らないことも大切にしたい」。
言葉を引き出して伝えることを仕事にする私ですが、何もかも語ってもらう必要はないと思っています。
初出note:「語らないこと」も、大切にしたい|Kondo Keiko
当事者の声を伝えること
企業の情報発信では、「当事者に経験を語ってもらう」場面が時折あります。例えば、病気と仕事の両立や、育児、不妊治療の経験など、センシティブな話題であることも少なくありません。
もちろん、当事者が声を上げることは、これまで見過ごされてきた経験を可視化し、世の中を変える力を持っています。
社内への広報であれば、「そういうことに困っていたのか」と知ってもらうことが、働きやすい風土の醸成や制度の整備につながることもあるでしょう。
一方で最近、私はもうひとつ、大切にしたいと思ったことがあります。
それは、「語らない」という選択です。
「黙ることで、人は自分のナラティブを守るということがある」
「語らない」に思いをはせたきっかけは、最近読んだ1冊の本でした。
中村佑子『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院)
この本は、病のある母を子ども時代にケアした当事者である筆者が、同じくヤングケアラーとして過ごした人々をインタビューする内容です。
一部を引用します。
黙っていても、人は何らかの物語をその身に抱えている。それを他者の前で言葉にして語ってしまうのは、危うく保っているバランスを壊してしまう。黙ることで、人は自分のナラティブを守るということがあるのだと思う。
語る権利と自由が取りざたされる時代の中で、黙る権利と自由を、わたしは愛している。むしろ黙る自由が自分を支えているのだと自覚する。
当事者が語り、告発し、自分をさらけ出し、明るみに出すことの価値が見直されている時代。それでもわたしは何を黙り、何を言葉にしないのか。その人にとって言葉にしない部分はどこなのか。そのまなざしを大切にしたいのだと今回の経験を通して思う。
引用:中村佑子『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院)
この一節を読んだとき、取材の現場で出会った何人かの顔を思い出しました。
言葉にならない思いを、勇気を出して語ってくれた人たちのことを。
そして、私が気づくことのなかったかもしれない、語らない選択をした人たちのためらいを。
人を素材のように扱わない
企業の文脈において当事者の声が求められるとき、それが強い善意や正しさの感覚と結びついていればいるほど、「語ること」が暗黙のうちに期待されてしまうことがあります。
それは決して悪意ではなく、むしろ、よりよく理解したい、伝えたいという意図から生まれていることがほとんどです。
けれど、語らないという選択も、同じように尊重されてしかるべきです。
人を「素材」のように扱わないことを心に留めていたいと、私は思うのです。

